無題

 手がかじかむように寒い。

 もう何年も着ているが依然としてお気に入りのままである青いダウンに袖を通して外に出る。
 寒い。

 もうすっかり冬になってしまったなぁ。息を吐き出して手を揉みながら肩をすぼめて歩き出す。
 大学の教室につけばまだ授業が始まるまで1時間半もあるというのに人がいる。教室の暖房はもうつけられていて、おそらく彼がスイッチをつけてくれたのだろう。ありがとう、と心の中でお礼を告げる。いつもの席に着いて荷物を下ろす。部屋はもうしっかりと暖まっていて少し暑くさえ感じる。ちょっと暖房つよすぎないか?設定温度高くしたのかな…?さっきまで感謝の対象であった彼の感覚を疑う自分がいることが情けない。しかし、大して知りもしない人間に対する人の気持ちなんて結局こんなものなのなのだ。例えば自分の頼んだピザに少し具が少ないとか、クリーニングに出した服にまだ汚れがあるとか居酒屋で頼んだレモンサワーの量が少ないとか、自分が少し我慢すれば何も問題にならないことも全くの他人ならそれほど恐れずクレームとして言えてしまう。それが友達のお母さんの営む居酒屋だったら?知り合いのおじさんの喫茶店だったら?
 まだ部屋の温度に慣れそうにない僕は歩いてすぐのコンビニまで行こうとまたダウンを取る。通勤、通学時間のコンビニは大抵人でいっぱいだが、大学のすぐ近くにあるこのコンビニはいつも空いている。いつものようにコーヒーを買い、空のカップを受け取ってコーヒーマシンにカップをセットする。カップにコーヒーが満ちるまでの少しの時間、ぼくは目の前に大きく掲げられた広告を一瞥する。”贅沢チョコレートパフェ“の文字。なんだか食べたい気持ちになってしまうが、それを注文する光景を想像して思いとどまる。なんで”贅沢“なんて名前をつけるのか。たしかに”贅沢チョコレートパフェ“の方がただの”チョコレートパフェ“よりも美味しそうに聞こえるけど、レジで「贅沢チョコレートパフェ一つ」といえばまるで「僕は贅沢がしたいんです!」と言っているようではずかしい。きっとどうしても食べたくなった時は「…チョコレートパフェをお願いします」と、何か他のものと迷って、さも贅沢を言い忘れたみたいな気持ち悪い演技をして頼むことになってしまう。まったく、商品名をつけたやつは頼む側の気持ちも考えて欲しいものだ。例えばファミレスで見るごちそうプレートとか、まんぷくセットとかもそうだ。「ぼくは満腹になりたいんです!」と大声で言っているような恥ずかしさがある。その点で食券制のお店はすごく安心する。贅沢チョコレートパフェと書かれたボタンを「僕は贅沢なチョコレートパフェが食べたいです!」と心踊りながらボタンを押すことができる。後ろに並んでいる人のことを気にすることなく、さながらサマーウォーズの健二がよろしくおねがいしまぁぁす!とボタンを押すあのテンションで、別に世界を救うわけでもないのに押す。
 カップいっぱいになったコーヒーに蓋をつけようと手を伸ばすと、
「ぜいたくチョコレートパフェ一つください」
 お母さんと手をつなぎながら、一語一語を確かめるように女の子が注文している。まだ幼稚園に入るかどうかの小さな女の子が一生懸命に何かをしている、それだけで場の空気がまるで暖炉を囲んでいるかのように暖かくなる。僕は一体さっきから何を考えているんだ。商品名がどうとか注文が恥ずかしいとかそんな事を考えていることがバカらしい。
 コンビニを出ると外は相変わらず寒くて、でも雲の間から差し込む朝日は心地よく地面を温めていた。

「贅沢チョコレートパフェ」
と声に出してみる。なんだか普通に注文できそうだ。

 

11/8

 1.5kmという距離は、子どもの足でだいたい30分ほどかかる。田んぼ以外何もない真っ直ぐ続いたその道は僕の通学路だった。夏には田んぼが緑で生い茂り、そよそよと風に揺れる。冬にはあらゆる生命が消えてしまったようにただ茶色が広がる。僕の家があった住宅地は小学校に1番近い住宅地に次いで新しい家がたくさん建っていて、同世代の子どもの数もそれなりだった。だからほとんど友達と通ることばかりだった道だけど、小学3年生ごろからは仲良しの友達がそれぞれに好きなクラブ活動を始めたことで、1人で帰る日もたまにあるようになった。
 あの頃、1人でまっすぐに伸びた道を歩きながら、この田んぼは誰が管理してるのかな、稲の生えている土は公園の土とどう違うんだろう、ここで出来るお米は誰が食べているのかな、どんな生き物が暮らしているのかな、今日は天気がすっごくいいな、今日はじめじめだから蛙をよく見るな、なんて考えた経験は確実に今の僕に繋がっていると感じる。情けない話だけれど、初めて自転車を買ってもらったその日学校まで行こうと自転車を漕いでいると、一角のキャベツ畑にたくさんのキャベツがまるまるとできていて、そこを飛ぶモンシロチョウをただじっと見ていたために用水路に突っ込んで大怪我しかけたこともあった。頭にたくさんの藻を乗せて帰った僕を見て母は悲鳴をあげていた。その時はなぜか冷静に、ああ、愛されているんだなぁと思ったのを覚えている。
 雨の日はびしょ濡れになって家に帰り傘を閉じ、ランドセルを守るためのカッパを脱いで雨の染みた長靴を脱ぐ。誰もいない暗い部屋の電気をつけるとテーブルの上には母のメッセージとラップのかけられた小さいドーナツの入った白いお皿。あの頃は子どもなりに状況を理解していたし何も言わなかったけれどやっぱり少し寂しかった。
 それぞれに家庭の姿があって、それぞれに生活スタイルがあって、それぞれに愛の形があって、その1つ1つを理解する事は出来ないかもしれない。
 彼女と寄ったドーナツ屋さん。家に帰って開けてみれば、いつものようにびっしりと詰められた肌色のドーナツ達。どう考えても買いすぎた輪っか達を見ていると、全く成長していない2人の性格をよく表しているようで笑ってしまう。変わらないっていうことは、変わるっていうことだ。……逆だっけ?まぁそんなことはどっちでもいい。
 ソファに座ってくつろぐ彼女を横目に僕はやかんを火にかけてコーヒーを、苦手な彼女には紅茶を淹れる。ただ暮らすだけで2人の間には心地よいジャズを聞いているような時間が流れる。彼女が怒った時はまるでSlipknotみたいなデスメタルがやってくるけど。いや、こんなこと言ったら、それこそデスメタルどころじゃすまないな…。そんなことを考えている間に2人ぶんのマグカップは暖かいコーヒーと紅茶でいっぱいになる。
「準備できたよ。」
 僕は、テレビにも飽きたようで最近お気に入りの小説に手を伸ばしていた彼女に声をかける。白いお皿には、2人分のドーナツを並べながら。

誕生日プレゼント

 小さい頃はお母さんと一緒にお店に行って、〇〇ちゃんにはこんなのが似合うんじゃないかな〜って教えてもらいながら、ほとんど母まかせで決めていた友達の誕生日プレゼント。花柄のハンカチだったり、クッキーの詰め合わせだったり、文房具セットだったり。その頃から近しい友達にはプレゼントをあげるのが当たり前になっていて、その癖は今でも離れずずっと僕の習慣になっている。
「だってプレゼント、貰うと嬉しいでしょ?」
 母の口癖だった。
 きっと僕はプレゼントする事が好きなんだ。選んでいるときはすごく楽しいし、これは似合うな、これは面白いけど喜ぶかな〜とか考えてるだけであっという間に時間が過ぎて行く。失敗したこともある。自分の中では最高に似合うと思って買った帽子を彼はすでに持っていて、結局それを逆に僕がもらうことになり、自分で彼とお揃いの帽子を買ったようになってしまった。でもすごく楽しかった。僕が本当に恵まれていると感じるのは、プレゼントした相手がいつも本当に喜んでくれることだ。プレゼントする側は怖い。全く嬉しくない、ただのゴミになってしまったらどうしよう…全然趣味と違ったら……。でもそんな事気にする必要はない。プレゼントなんて、そもそも貰う予定のないものを受け取る、ただそれだけの行為なんだから。絶対に喜ばせないと、なんて気負う必要もない。
 今日は友達に、ワインをあげた。彼の最高に笑える、ぐしゃぐしゃな笑顔の写真をプリントしたラベルを貼って。
 それでいい。そうやって、お互いを少しずつ思ってみればいい。
 だってプレゼント、貰うと嬉しいでしょ?

summer

 久しぶりに会ったかわいい友達はそのきれいに伸ばした髪の毛先を少しだけ紫に染めていて、夏の想い出を楽しそうに話してくれた。初めて日本を出た話、税関のおじさんのメガネが丸くてキュートだった話、初めて海外で食べたものが結局マックのハンバーガーだった話。お土産に、とくれた小さなビー玉には彼女の夏が詰まっているようでそのきれいに透き通った赤色と青色が混じった世界はいつまで見ても飽きないような、でもずっと見つめていては消えてしまいそうな、そんな素敵な夏だった。僕が過ごした夏と彼女が過ごした夏はきっと平行に走っていて、でも思いもよらない所で混じっているものだ。同じ日に同じ空港に帰ってきた僕らは、楽しかった夏を忘れてしまわないようにお互いの脳みそに書き込んでいく。きっと来年はもっと素敵な夏になる。そう信じてやまない僕すっと手を持ちあげ、光に透かせばキラキラと光るビー玉をいつまでも見ていたかった。

 

秘密基地計画

<秘密基地計画>

 二人の秘密基地を作ろう。
 僕たちはきっとこれからもずっと嫌なことや楽しいことや悲しいこと辛いこと悔しいこと泣くほど嬉しいことを共有する。そのために必要なのがそう、秘密基地。
 小さなころ僕たちは皆自分なりの秘密基地を持っていた。それは友達と一緒に作ったものだったり、兄弟と作ったものだったり、自分一人だけの世界だったりした。新しい遊びを開発したりカードゲームを持ち寄ったり家から持ってきたバナナを食べる場所だったり好きな人の話をしたりする場所だった。
 僕たちは歳を重ね成人した。それはつまり大人になったということなのか?僕たちはまだ新しい遊びを開発したりカードゲームを持ち寄ったり家から持ってきたバナナを食べたり好きな人の話をしたりしないのか?心を映し出すスクリーンのように広がる秘密基地を作ろう。
 不条理に苦しむこともある。やるせない心を吐き出したくなることもある。
 だからそう、社会から隠れてこっそり楽しく暮らしてやろう。
 作ろう、僕たちだけの秘密基地を。
 
 

深海で会いましょう。

 深海魚を食べてみたい。実は去年の夏からずっと思ってて未だに叶ってない。ふと調べた沼津のホームページに掲載されてていいなって思ったのがきっかけ。あいにく沼津はそんなに近くないのでなかなか行く機会がないんだけど、でも行く時間がないかって言われるとそうでもなくて。結局そんなことばっかりなんだよね。こうしたらいいな、こうしたらこうなれるな、こうなるにはこうすることが必要だな、そこまでは無限にアイデアが出てくるんだけど、いざやるかってなるとこれが始まらない。でもそんなことは本当はどうでもよくてって思ってる自分がいるのも事実で。自分の思うすごい人っていっぱいいるけどそんな風にはなれないんだろうなって。そんな風じゃダメかなって一度だけ頑張ったことがあってその時の頑張りがたぶん今の自分がいる世界に繋がってる。あの時の自分ほんとによくやった。本当によくやった。感謝感謝。まぁとにかく、深海魚はすごい。だって深海はめちゃめちゃに深い。きっと僕たちの過ごしているこの世界とは全くの別世界。新作のフラペチーノが出れば女子大生やOLがこぞって行くスタバも無ければ単に自分のことが嫌いなだけなんじゃないかと毎日気を揉む原因になるガミガミした上司もいないはず。分かんないけど。いるかもしれない。でも深海魚(上司)が深海魚(部下)にガミガミ言ってるのとかもうわけわかんない。とにかく、深海はすごいってそれだけの理由で深海魚が食べたいって言ってるのかって話だけど本当にそれだけ。結局人間の感情なんてそんなもんかなって思うんだよね。あ、これいいな、って感覚で世界の良いものって形成されてると思う。それって本当に主観で、おしゃれだって言われるものと変なものって紙一重だしみんな自分の感覚が社会的に正しいか信じられないから流行りに頼ったり、おしゃれだって認められてる人を真似したり。でもそれで良いと思う。その不安が、その怖さが人間らしさだと思うから。

 そういえば最近高校生とか大学生、おじいちゃんとかが海で溺れて亡くなるニュースをよく耳にする。みんな何でそんなに海に入っちゃうんだろ。危ないのに。海ってすごい大きいし。海水浴とかで気軽に海に入るといつも、うわ、海ってめっちゃ広いな...このままずっと続いてるんだよな...ってちょっと怖くなる。だって海ほどずっと続いてるものってあんまりなくないかな。小学生の遠足で食べたヒモQっていうグミ。その名の通りヒモ状になってる長いグミなんだけど、あれもちゃんと端っこがあって。僕はバスで、当時好きだった女の子の近くに座ることに成功して最高に盛り上がってたんだよね。で、その子含めた近くの四人でお菓子交換とか始まったんだけど僕が持ってるのはヒモQ。どう考えても無理。バカ。だって分けられない。分配しようがない。ヒモみたいに続いてるのが売りのヒモQを分配できるわけがない。ただただヒモみたいに長いグミ。スーパーのお菓子コーナーでなぜかそのひたすらに長いグミに惹かれて買ってしまうという愚行。もちろん僕はみんなに分けられるお菓子は持ってなかったからお菓子忘れてきちゃったみたいなことを言ったような気がする。みんな色々分けてくれて楽しかったんだけどなんかもうショックであんまり覚えてないね。あの日以来ヒモQは買ってません。

 友達と会うちょっと前の空いた時間に軽くファミレスに入ってタバコに火をつけて、こうやってとりとめもない文章を吐き出して、そうするとどこか自分が埋まっていく感覚ってあって。何の目的で?何になりたくて?モラトリアムを謳歌する真っ只中の自分に意味を見出すことって思ったよりも簡単じゃないなぁって思ったり思わなかったり。でも何でも良いから続けてみるかって話。海みたいに。自分の世界で唯一続いてるのは自分かもしれないから。来年こそは深海魚。沼津で深海魚。何かがずっと続くその先に深海があるなら、みなさんどうか深海で会いましょう。

 

 そういえばあの日の遠足のバス、帰り道で好きな子がお茶についてた景品の小さいキーホルダーをくれたんだよね。確か子犬のキーホルダーだったはず。家に帰ってそのキーホルダー見ながらちょっと嬉しい気持ちでヒモQ食べました。

 

restart

 昔からいつもそうだった。初めてカブトムシを飼った小学生の時も、中学生の時に始めた100円玉貯金も。こうして大人になって、果たして今の自分が大人なのかわからないけど、でも昔に比べたらずっとずっと大人だから。これまでたくさんのことを途中で投げ出してきたこの僕でも、このまま君のそばにいられるだろうか。

 これまでどうやって育ってきたのか、どんな食べ物が好きなのか、好きな唄は、好きな空の色は、今まで好きだった人は...。きっと、これからゆっくり時間をかけて過ごして行けばいい。

 初めて二人で入った喫茶店で君が頼んだクリームソーダ。僕は緑色だと決めつけていたけど青色だった。青いクリームソーダ。炭酸が苦手なのに、夏だから、綺麗だからって君の頼む青いクリームソーダ。君もいつか炭酸が苦手じゃなくなって、すっかり好きになってしまうのかな。

 これからどれだけの時間を過ごせるのかそんなのまだ全然わからない。でもただ一つ、きっとこの夏から全部始まっていく。二人でエアコン使いすぎて電気代が少し高くなったり、フェスで初めて聞いて一緒の曲を好きになったり、家でかき氷作りすぎたり、よく待ち合わせに使うのが駅の3番ホームだったり。この手の中にある1番身近な未来、夏をもっともっと二人で進もう。その青い炭酸を飲み干す前に。