コーヒーとドーナツ。

 直近に控えていた大切なテストもほとんどが終わり、やっと生活が落ち着いてきた。最近は時間ができれば読書でもしようかなと机の上に高々と積まれている文庫たちの中から毎日一冊を持って学校に行き、読み終えたら帰るという貴族のような日々を送っている。

 医学生に限ったことではないが、世の中にはあまりにもテストが多い。僕はどうもテストというシステムが昔から苦手で、テストの重要性が高いほど前日の夜は眠れず最悪のコンディションで試験に望まなければならないことも少なくない。医学的にも証明されているが睡眠不足は確実に認知能力を低下させる。今、自分が何について考えているのかふと分からなくなる瞬間があったりすると「今日のテストはもうダメかもな」なんて思ってしまうものだ。そんな時はいつも、少し時間を食ってしまうことを承知で九九を頭の中でやってみる。簡単すぎるので1の段は飛ばす。2の段から、にいちがに、にさんがろく、とやってみる。どうして九九なのか?それは小学二年生の時に「これは知的だ」と初めて認識した、友達とできるゲームだったからだ。ルールは簡単でいかに早く、正確に九九を言えるか。小学校二年生だった僕はどれだけ九九を早く言えるかが賢いことだと思っていたし、友達よりも正確に素早く7の段を言えた時は嬉しいと素直に思っていた。そう言えば、友達に負けたくないと家で母親と練習したりもした。母親はうんうんとなんども繰り返す僕の7の段を聞いてくれた。(たまには2の段も聞きたかったろうに僕は苦手な7の段ばかりを練習していた。)それ以来自分の脳みそコンディションチェッカーとなった九九は今も健在で、しっかり9の段まで言えると、まだ大丈夫そうか、と再びテストの文字を追うのだ。

 しかしどうして眠れないほどに感情が揺れ動いてしまうのだろうか。その理由の1つには、きっと僕が自分の能力を実際よりももう少し上なはずだと心の何処かで思っていることがあるのだと思う。テスト前なのだからもちろん勉強はそれなりにしているし、あとはもう受けるだけなので悩んでも仕方ないのだけれど、結果が出なかったらどうしよう、くだらないミスを連発してしまったらどうしようなどと考えることをやめられないのだ。

 これは僕が試験に落ちることや、成績が振るわないことが僕自身に起こることを恐れているからでその魂胆には「落ちるような人間ではない」というような、ある種驕りのような感情があるのだと思う。もし自分自身に全く期待していなければ、落ちてもともとと悟りの境地に達しているかのような振る舞いになることは容易に想像できるし、自分はもう少しできる人間なはずだと自分を一番追い詰めているのはきっと自分なのだ。

 では自分に一切期待せず、自己否定を受け入れるべきか。ぼくはそうは思わない。小さい時、自転車の後ろを持ってもらいながら練習していたあの時、僕は「もう乗れるから大丈夫!」と強がってペダルを大きく踏み込んだ。誰の手も繋がっていない自転車はグイッと前に大きく進み、僕は初めて1人で自転車に乗った。僕は1人でも乗れると思ったから乗れたのだ。怖くなかったわけではない。でも踏み込んだ。

 大好きだったあの子に告白したのは、ただ気持ちを伝えたかっただけなんかじゃない。きっと付き合えるはずだと思っていたからだ。怖くなかったわけではない。振られたらどうしようと考えるだけで唇は、手は、足はガクガクと震えた。それでも僕は告白した。(結果は大成功!)

 自分はきっとできるはず、そう思えば思うほど叶わなかったときの事が怖くなって、気持ちは不安定になる。ダメだったらどうしよう、そう思えば思うほど前日は眠れないし、その場へ向かう足取りは思いなんてものじゃない、震えて使い物にならない。それでも自分に期待しなければ、1つ上のステージになんて挑戦できない。自分のなりたい自分になれる自分に期待して、僕たちはこれからも震える手と足を必死に抑えながら立ち向かって行くほかないのだ。

 テストが終わり生活が落ち着き、合格の結果も出て心は穏やか、家で濃いめのホットコーヒーと砂糖で真っ白のドーナツが手元にあるというこれ以上落ち着きようのない状況のもと、全く震えることのない手でパソコンに打ち込んできたこの文章に説得力があるかどうかはさておいて。